解剖学と生理学のすすめ

ひとつ前の記事で、「身体に意識を向けることの効用」について書いた。

(リンクはこちら→「ただ、意識を向ける」)

 

身体に意識を向けるということに慣れていない場合

最初は、お腹、胸、手、足、というふうに大雑把に感じてみて

慣れてきたら、臓器の一つひとつ、例えば心臓に、胃に、肝臓に、というふうに

各臓器や器官それぞれ意識を向けてみると良いと思う。

続けていると、一般の健康診断ではわからないくらいの不調も敏感に感じられるようになる。

いわゆる「野口整体」の考え方では、「敏感」=「健康」。

逆に、「鈍感」=「不健康」。

「身体を感じる」ということは、正に健康への第一歩なのである。

 

 

 

その、「身体を感じる」ことの実践のためにおすすめなのが、解剖学と生理学である。

「○○学」なんて聞くと、なんだか難しそうに感じる人もおられるかもしれないが

解剖学とは要するに「見た目」である。

それぞれの臓器や器官、骨や筋肉が身体のどこに位置していて

どんな形をしているかについての学問だ。

それに対して生理学は「機能」。

各臓器、器官などがどんな役割を担って、どんなふうに仕事をしているか

ということについての学問。

 

 

「学問」などというと大層だが、大雑把なことなら本を一冊読めば大体わかる。

最近は一般の人向けの、詳細な図の入ったわかりやすい本がたくさん出ている。

たいてい、解剖と生理が一緒に説明されている。

子供向けの漫画なんかもあるようだ。

 

 

なぜおすすめするのかと言えば、単純に、イメージしやすくなるから。

ある臓器に意識を向ける時、大体身体のどの辺にあって、どんな形をしているか

わかっている方が意識を向けやすいし、その近くに手を当てることも容易だし、

どんな仕事をしてくれているか、知っている方が気持ちも入りやすい。

そういうことで、同じ「意識を向ける」でも、中身が違ってくる。

 

 

自分以外の人との関係だって、相手のことを全然知らないのと

少しでも知っているのではその人に対する気持ちとか、違うでしょう。

相手を大切にしたいと思ったら、相手のことを知りたいと思うでしょう。

だから、自分の身体を大切にしたいと思ったら

あるいは自分の身体ともっと仲良くなりたいと思ったら

解剖学と生理学はおすすめなのだ。

この素晴らしき世界

BSE(いわゆる狂牛病)が、国内で初めて発生した時のことを

皆さんは覚えておられるだろうか。

2001年9月のことである。

その直後に発生した米国同時多発テロという大事件によってだいぶかき消されたが、

それでも我が国の畜産業界にとっては、震度8くらいの大激震であった。

 

 

当時私は、地方自治体の県庁にある、家畜伝染病防疫の現場を統括する部署で

獣医師として勤務していた。

就職して数年は、畜産現場を走り回って牛や豚や鶏と戯れて(?)いたのだが

その年の春に突然異動を命ぜられ、公務員らしい事務仕事をすることになったのだ。

 

 

それまでは、いくら汚れても気にならない作業着を着て、

昼時になると定食屋で胡坐をかいてどんぶり飯をかきこむような生活をしていたので

毎日きちんとした洋服を着て、それなりに身なりを整えなくてはいけないことも、

一日中机の前にかじりついて、慣れないかつ苦手な事務仕事をすることも

当時の私にとっては相当なストレスであった。

まだ20代だったが、目の周りが落ちくぼみ、一気に白髪が増えた。

激震が起こったのは、そんな生活が始まって約半年が過ぎた頃のことである。

 

 

最近では、鳥インフルエンザなど、人にも感染する可能性のある危険な伝染病が

時々発生してニュースになっているが、2001年以前は一般のニュースに

取り上げられるようなヤバイ家畜伝染病は、国内では数十年も発生しておらず

今思えば、畜産業界はいわゆる「平和ボケ」状態であった。

だから、マスメディアに大々的に取り上げられ、消費者に恐れられ

牛を原料とした畜産物が売れなくなるという事態を前にして

畜産業界は文字どおりパニックに陥った。

全国で肉牛の生産農家が倒産したり

売れなくなった牛肉が腹いせに道路に捨てられたり

検査を担当した若い女性獣医師が自殺するという悲しいニュースが

連日報じられた。

 

 

 

 

毎日怒号が飛び交う中で、怒りや不安やイライラのこもった

電話の応対に明け暮れつつ、山ほどの大嫌いな事務仕事を片付け

日付が変わるころ、へとへとになって家に辿り着き、テレビをつけると

アメリカで人々が泣き叫び、悲しみや憎しみが画面からあふれている

実際に経済的被害を被っている畜産農家や関連業者の人たちに比べれば

私の置かれた状況など苦労と呼べるほどのものでもなかったが

それでも当時の私にとっては、それなりにキビシイ体験であった。

 

 

そんな状況が続くうちに、やがてもう何もかもどうでもいいや、と思うようになった。

「何も感じないようにする」。

心や身体の感覚を麻痺させる、ということが、

その時私が思いつく、最も簡単な、唯一の逃げ道であった。

(それが表に出てしまい、電話の応対がロボットのようになっていたらしく

取材の電話をかけてきた新聞記者にキレられ、その時はいたく反省したのだけど()。)

 

 

ぼーっとしながら車を走らせていると、

突然頭の中に、ルイ・アームストロングの歌う、かの名曲

What A Wonderful World」が流れてきた。

わけがわからないまま、しばらくぼんやりと聞き入っていたら

これまたずいぶん唐突に

「ああ、この人は、人間の醜さも、世の中の理不尽も、お腹いっぱい見たうえで

『世界は素晴らしい』って歌うんだ」と思った。

 

 

自分でそう「思った」わりには、その時は意味がよく分からなかった。

だけどそれ以来私はジャズを聴くようになって、しばらくは

ルイ・アームストロングと同時代を生きた伝説の音楽家たちの演奏を聴きながら

「大人になるってこういうことかもしれない」などと悦に入っていたものである。

世間的にはもうとっくに「大人」ではあったのだけど

その時私は確かに、大人の階段をほんの一段、上がったような気がしていたのだ。

 

 

そういえば、昔、仕事の途中によく立ち寄った定食屋の壁に

こんな川柳を書いた色紙が飾ってあったな。

「向かい風 にっちもいかず サッチモを聴く」

 

(「サッチモ」はルイ・アームストロングの愛称です。)

 

 

ターンを切り上げろ

学生時代、基礎スキーをやっていた。

やっていたといってもスキー部とかサークルに所属していたわけではないのだけど

冬になると度々ゲレンデに通い、講習や検定を受けていた。

 

 

スキー道具は日進月歩で目覚ましく進化しているので、

最近の道具ではだいぶ感覚も異なるかもしれないのだが、

スキーは基本的に重力に任せて雪面を滑り落ちていくので

スキーの板よりも身体が遅れてしまうことが多い。

身体の重心が板の後ろに乗ってしまうと、板が思うようにコントロール出来なくなる。

特に身体が遅れやすいのは、一つのターンから次のターンに切り替える時だ。

タイミングを間違えると次のターンに入った途端に身体が遅れてしまうことがよくある。

 

 

ターンの終わりに差し掛かった時、次に進む方向にちらりと目を向けつつも

体重を真下にかけてひたすらしっかり板を踏み込んでいると

雪面がふわりと押し返してくる感覚を感じる瞬間がある。

一つのターンが終わり、次のターンに切り替えるのはこの時。

大切なのは、ターンの一つ一つを丁寧に切り上げて、

きちんと終わらせてから次に行くことだ。

 

 

急な斜面や、スピードが出ている時ほど焦りが出て

この瞬間を待てずに無理矢理板を操作してしまったり、

あるいはすでに重心が後ろにあって、板を踏み込めないために

いつまでたってもこの感覚がやって来なくて

これまた焦って修正しないまま、無理矢理次のターンに入ってしまったりしがちだ。

これを繰り返すうちに事態は次第に悪化して、板がコントロール出来なくなり、

終いにはターンすら出来なくなってただひたすら斜面を落下していくか、

もっと悪ければ転倒することになる。

 

 

スキーをやめてからもうだいぶ長いことたっているが

いつの頃からか、人生の中である段階が終わりに差し掛かり

次の展開について思いをめぐらせる時になると

ふわりと優しく向こうから押し返して、「さあどうぞ」とでも言うように

次への切り替えの最適なタイミングを教えてくれた

あの雪面の感覚が思い出されるようになった。

 

 

今がしんどかったり面倒くさかったりして、あるいは今と違う景色が見たくて

早く次の段階に進みたいと、意識が先へ先へ向かいがちになる、そんな時

何度も何度も失敗し転倒しながら、ただひたすら

雪の斜面を上っては下り、上っては下り続ける中で追い求めていた、

あの感覚を思い出しながら、私は自分にこう言い聞かせる。

 

 

「真下に踏み込め。ターンを切り上げろ。」

 

ただ、意識を向ける

人の身体に触っていると、大小様々の硬結(しこり)に触れることがよくある。

手を当てていると、小さいものなら氷が溶けるように消えていく。

かかる時間は時と場合によるが、範囲の広いもの、あるいは頑固なものでも

手を当てていると緩んで柔らかくなってくることが多い。

 

 

いわゆる野口整体では、この、手を当ててそこに意識を集中する行為を

愉気(ゆき)」と呼ぶ。創始者野口晴哉の作った言葉である。

野口晴哉の著書の中には愉気についての説明がいくつもあるが

例えば「愉気法2」という著書の中では以下のように説明している。

愉気というのは、人間が心を一つに集める。注意を或る処に集めると、

注意の集まらない処と全然違ったはたらきをするのです。」

 

 

このことは、「物質が観測の影響を受ける」という量子論の基本とも共通する。

実際、愉気をしていると骨のような固い物質でも容易に変化することがある。

 

 

野口整体では、愉気をするための訓練方法なども学ぶし、

それは突き詰めればとても奥深い世界で、やる人によってその質も

起こる結果もかなり差があることは確かだ。

自分がやるのは難しいと感じる人もいるだろう。

 

 

だけど、あなたがもし、今よりもっと健やかな身体になりたいという

気持ちを持っているのなら、まずはただ「身体に意識を向ける」

というところから始めてみるのはどうだろう。

多くの人が、頭の中で何かを感じ、考えることばかりに意識を向けがちだ。

その意識を、身体に向けてみる。

あなたのお腹は、あなたの胸は、あなたのみぞおちは、今どんな感じか。

重いか軽いか。ほんのかすかでも痛みはないか。もやもやしてるかすっきりしてるか。

呼吸をしながら、ただ感じてみる。

 

 

あるいは、一日の終わりに一言でいいから声をかけてみよう。

例えば「今日も一日ありがとう。ゆっくり休んでね。」とか。

その時だけでも意識が身体に向くだろう。

今までほとんど身体に意識が向いていない人だったら

それだけでも習慣になれば、身体に起こる変化は結構大きいはずだ。

 

 

ただ「意識を向ける」。

大げさに聞こえるかもしれないが、

それは愛を表現することの第一歩だと、私は思っているのである。

この一歩は大きい。

 

 

ちなみに、冒頭の、「しこりに手を当てると溶けて消えていく」というのは

心にも同じことが言える。

長くなってしまったので、そのことはまたいつか別の機会に。

 

集中欲求と鬱散欲求

人間の欲求にはいろいろあるが、エネルギーの平衡を保とうと

するが故の欲求として、集中欲求と鬱散欲求がある。

すなわちエネルギーが内側に溜まれば

それを外側に発散させるための行動欲求が生じ、

逆にエネルギーが不足すればそれを補うための行動欲求が生じる。

これらは肉体的、生理的欲求であるので、

そこから生じた欲求がどんなものであっても

「あまり良いことじゃない」とか、「恥ずかしい」とか、「みっともない」

とか、頭考えてどうにかしようとしても、どうしようも無いということがある。

 

 

子供なら特に、これらの行動欲求を理性でコントロールするのは困難だ。

子供が乱暴に振舞ったり、何かを壊したり、誰かに意地悪をしたり、

あるいはいつまでもぐずぐずと泣いてみたり、わがままを言ってみたり

大人が眉をひそめるようなことをわざと言ったりしたりする時は

大声で叱ったり、あれこれ考えて長々と説教する前にまず

子供がそのような行動をとる背景に、どのような欲求があるのか

ということを考えて、その欲求を満たさないことには根本的には解決しない。

 

 

言葉でいうほど簡単なことではないが、しかし

その欲求を満たさずして、𠮟ることで矯正しようとしても

おそらくあまり上手くいかない。

叱る方も叱られる方も、ストレスを溜めて互いに疲れるだけである。

仮に、厳しく叱ることで子供が恐怖を感じて大人の思い通りになったとしても

欲求を抑圧されたことで子供の感受性に歪みが生じる可能性がある。

そのまま成長してもどこかで不具合が出てくる。

 

 

大人でも同じことで、「正しくあろう」「立派であろう」とか

「こうあるべきである」とか頭で考えて、自分を律しようと

必死になってもどうにもならない時、

自分の内側にどのような満たされていない欲求があるのかをつぶさに感じて

それを満たす方がずっと早いということがある。

大人なら、他人に迷惑をかけたり不快感を与えたりすることのないように

工夫して、自分の力で自分の欲求を満たすことは可能だ。

あるいは、自分以外の人の力を借りる必要があるなら、

丁重にお願いをして、相手の同意を得て助けてもらうことだって出来る。

 

 

大切なのは、まず自分の中にある欲求を丁寧に感じるということ。

そしてどのような欲求を感じたとしても、その内容によって

「いい年をして恥ずかしい」とか「くだらない」とか「情けない」などと

自分を責めたり、恥じたり、叩きのめしたりせずに、

社会的に問題の無い形で、出来る限りその欲求が満たされるように

してあげることだ。

 

 

依存とエネルギー

私たちのエネルギーは、心理状態や肉体の状態によって様々に変化する。

 

 

もしもあなたが、誰かや何かに依存している時、

あなたのエネルギー体の一部が、その依存している対象の方に行ってしまうので

あなたの本体のエネルギーは目減りする。

依存されている方は、自分以外のエネルギー体に乗っかられるので重たくなる。

 

 

「自分以外の何かに依存しなくては、自分は成り立たない」という想念は

そのままエネルギー状態に反映するので、

エネルギー体はその通り、小さく、弱々しくなる。

 

 

さらに、その「自分の力だけで成り立たない、立つことが出来ない」

という想念が「自分を信頼しない」という自己否定となって

気がつかないうちに自分自身を傷つけ続ける、ということも起こり得る。

私の経験では、この場合、ハートチャクラに深刻なダメージを与える。

 

 

「依存は絶対にしてはいけない」と、私は思わない。

相手によっては危険なので、対象を十分に選ぶべきではあるが

生きていれば時には、実際に自分の力だけではどうにもならないほど

弱って、途方に暮れてしまうことだってある。

そんな時、対象となる相手が合意してくれるなら、

自分以外の何かや誰かに寄り掛かることがあったっていいと思うのだ。

だけど、いつまでもやっていると、それはそれでまた

自分の力を失ってしまう原因になりかねない。

 

 

とても親密な相手で、例えば夫婦のように、長く生活を共にするという同意があって、

お互いにある程度の依存心があっても、それが心地の良い関係なら

さほど問題はないかもしれない。

だけど、そうでない場合、一時的にそうすることがあっても

適当なところでやめた方がいい。

 

 

恐いのはわかる。

でも、思い切ってばっさりとその依存を断ち切った時

あなたは、自分本来のエネルギーがどれほど力強いものだったか

ということに気が付くことが出来るかもしれない。

自分の糞は自分で気張らなければならない

表題は、敬愛する整体の創始者野口晴哉氏の言葉である。

他人に気張ってもらっても、自分のうんこを出すことは出来ない。

自分で気張るしかない。

手伝うことは出来るが、最終的に出すのは本人だ。

 

 

整体師は、自分以外の人が健やかになるためのお手伝いをするのが仕事だが

あくまでも出来るのは「お手伝い」であり「応援」である。

身体の不具合を治すのは、最終的には本人にしか出来ない。

身体の状態は、その人の生活、生き方の反映だ。

 

 

整体の施術の時に、「このような運動をしてください」とか

「この習慣は改めた方が良いですよ」とかいう話をしても

「はい、はい」というだけで実際に実行する人は思いのほか少ない。

本当は、整体師の施術よりもそっちの日々の積み重ねの方が

ずっと効果があるのに。

 

 

西洋医学に基づく医療は、その他の療法に比べると

かなり強引に(他に適当な表現が見当たらないのでこのような言葉を使うが

必ずしもネガティブな意味ではない)患者の肉体に介入するので、

「医者に全てを任せて治してもらう」感が強くなる。

それは、時と場合によってはとても頼もしい存在だ。

私もこれまで何度も助けてもらって、とても有難かった。

だけど、病院で医療行為を受けたって、結局のところ

最終的に治すのは本人の身体の力である。

 

 

だから、自分の生活や生き方を省みず、改めず

誰かにどうにかしてもらおうという気でいる人はなかなか良くならない。

「やるのは自分だ」という意識が大切なのである。

 

 

もちろん、エネルギー状態の改善についても全く同じことが言える。

エネルギーは物質である肉体に比べて変化が容易なので

「誰かにどうにかしてもらおう」という意識を捨て、

「やるのは自分だ」と肚をくくるだけで

大きく変化させることだって可能なのだ。